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【広島カープ・ハンドタオル】もみじ饅頭◆毛利元就カープ坊や◆流鏑馬?広島宮島厳島神社コラボ?ゆるキャラクター限定品プロ野球グッズ

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Original Japanese name: 【広島カープ・ハンドタオル】もみじ饅頭◆毛利元就カープ坊や◆流鏑馬?広島宮島厳島神社コラボ?ゆるキャラクター限定品プロ野球グッズ
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広島カープ 毛利元就風カープ坊や 流鏑馬 やぶさめ



広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。

セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属している。通称は「広島」「カープ」「鯉」。

広島県を保護地域とし、広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、三大都市圏外に本拠地を置く球団である。

特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注釈 1]、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とする[出典 1]という、他球団と比較して特異な歴史を有する[注釈 2][出典 2]。カープはお好み焼き、マツダ、広島電鉄などと共に広島の戦後復興の象徴として語られることが多い[出典 3]。地域密着型プロスポーツの先駆けである[6]。

地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する[27]。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[28]、経営陣の派遣は行う[注釈 3]ものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていないが、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達している[注釈 4]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある[29]。「市民が直接株式を保有する」との意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」との意味では今なお市民球団のイメージを有している[出典 4]。

なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。

球団の歴史
球団創設
1949年
正力松太郎の2リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[出典 5]。広島は昔からスポーツが盛んで[出典 6]、特に野球に熱狂的な土地柄であった[出典 7]。戦前から広島商や広陵中、呉港中といった名門校があり[7]、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手を輩出した野球王国という下地があった[出典 8]。
正力の2リーグ構想が公に出た4月から[出典 9]4か月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[50]。4人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と4人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[出典 10]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注釈 5]、3人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島2区選出の衆議院議員・谷川昇と元名古屋金鯱軍理事で広島出身の山口勲[53]が「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と訪ねてきた[52]。連盟と関係が悪い山口は自分は動けないと判断し[53]、そこで、『郷土に球団創設の機運をつくってほしい』と谷川に申し出ていた[出典 12]。谷川は当時公職追放中で公務からは外され[出典 13]、元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[14]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[出典 14]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[51]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[51]。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[51]。
9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」の文字が一般にお目見得した[51]。「チーム名は“鯉” 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[出典 15]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球倶楽部・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注釈 6]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[出典 16]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[53][注釈 7]。原爆投下から4年と数か月でプロ球団創設に漕ぎつけた[出典 17]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[35]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンスの監督・石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[出典 18]、郷土チームにうってつけの監督として12月3日、石本の初代監督就任が決定した[出典 19]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[51]、チーム作りを一任[57]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[51]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[13]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[13]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[57]。本拠地は広島総合球場とした[43][58]。カープ発足より9年前に完成していた当時は廣島総合體錬場という名称だった同球場が、本格的な野球場だったことがカープ誕生に大きな役割を果たしたという見方もある[43]。
核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注釈 8]、正式な球団結成式は広島商工会議所に於いて1949年12月5日である[60]。翌1949年12月6日付の読売新聞全国版には「広島カープス結成」と見出しが書かれている[60][注釈 9]。球団関係者の中にも「カープス」と呼ぶ人が多かったという[61]。12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[51]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い」と呼びかけ[62]、選手集めにも奔走し[7]、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、戦前の名古屋金鯱軍のエースながら肩をぶっ壊して郷里松山に帰り、8年間喫茶店のマスターをやっていた中山正嘉を強引に復帰させるなどした[7]。12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した[51]。
広島カープ時代
1950年
1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ[63]、ファン約1万人が押し寄せた[52][注釈 10]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった[出典 21]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[出典 22]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[12]。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を宿舎として借りた[出典 23]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島県総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[52]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[52]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[17]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[出典 24]。監督・コーチに選手を合わせて総勢41名で公式戦に挑むことになった[7]
3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている[70]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[71]。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。
この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[68]。そのため当初1,100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[57]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった[注釈 11]。
こうして開幕から僅か3か月で経営危機説が流れるようになった[72]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、二軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130 - 140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させたという、犯罪行為を働いたが、無罪放免となっている[35]。
6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた二軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注釈 12]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[35]。
12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
1951年
年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[72]。
球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋(現・サントリー)に相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたがもちろん「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて日本専売公社[注釈 13]に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[74]。
こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、合宿所「御幸荘」の所有者が「御幸荘」を売却、段原の「向陽荘」に移る(1958年の三篠合宿所完成まで[出典 25])[注釈 14]。練習場の確保も難しかったことから、「向陽荘」の裏山にあたる比治山を自主練習の拠点とした[出典 26]。3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められる。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[35]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[71]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[出典 27]が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[出典 28]。
石本は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と労働者の権利を無視し、身勝手にも訴え[出典 29]、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表した[出典 30]。
3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において鈴木龍二セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と永野重雄代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている[82]。こうして3月23日、鈴木龍二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した[70]。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにもかかわらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した[82]。
連盟の通告を受けて、檜山袖四郎球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の松島鹿夫セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより[82]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[71]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対大阪タイガース戦となった[70]。
石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[出典 31]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を行い、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[出典 32]。また石本や白石は試合後に選手を連れて県内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"や"カープ石鹸""カープ選手サイン入りふろしき"などを売ったりした[出典 33]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地の広島総合球場前での酒樽の中に募金を入れる「樽募金」[出典 34]も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[84]。その結果、この年130万円の黒字を計上した[71]。この一件は、通称「昭和の樽募金」と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[14]。
しかし、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[85]。
12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する[注釈 15]が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により、長谷川の広島復帰が決まっている[70]。
1952年
開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた[出典 35]。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており[注釈 16]、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった[出典 36]。
開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた[注釈 17]。長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。
なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
10月13日のシーズン終了後から2日後の10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。松竹は勝率3割を下回って「罰則」対象となることが決まったため、チームの解散を見越しての素早い動きだった。
1953年
大洋に吸収合併された松竹から赤嶺昌志一派(小鶴誠・金山次郎・三村勲)が集団で移籍した[53]。後援会は外国人選手を獲得するため更に400万円を集め、1,000万円を集め[53]、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉が入団した[出典 37]。
後援会の資金力の増大とともに創設発案者である石本の発言力が増し、石本は球団の資金繰りに深く関与し、実質的な経営トップの役割を負わされるようになっていく[53]。一方、後援会の一部の役員が球団経営や監督采配などに口を出すようになり、石本との対立が先鋭化した[53]。背景には石本の出身校である広島商業とライバル校の広陵出身者との学閥争いがあるともいわれた[53]。1952年に起きたエース長谷川を巡るトレード騒動の際、石本が裏金を受け取ったとの噂が流され、それを真に受けた後援会は鬼の首を取ったように石本批判をエスカレートさせた。やむなく石本はこの年1953年5月に監督の座を広陵出身の白石に譲り、以後は総監督兼常務取締役として球団経営に携わることになったが、それでも後援会の批判は止まなかった[53]。堪忍袋の緒が切れた石本は8月8日、「50万円受領説」を再三流していた後援会幹部を告訴するとともに、日本野球機構初代コミッショナー・福井盛太に真相究明を依頼。調査の結果、石本の潔白は証明されたものの、石本は8月末に辞表を提出。球団は草創期の功労者を守れず、感情的なしこりも残った[53]。
オールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
1954年
この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
この頃になると球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[注釈 18]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[90]。
広陵野球部OB・松本瀧藏代議士の手引きにより、1月16日から31日まで初の海外遠征(フィリピン)[出典 38]。
新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が、2月11日広島入りし[出典 39]、広島に4日間滞在[出典 40]。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑[95]と広島市内の三瀧荘に宿泊し[出典 41]、広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問[出典 42]。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビー・ブラウン、フランク・オドールが広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った[出典 43]。
シーズンは、開幕7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
1955年
この年から助監督に門前真佐人、二軍監督に野崎泰一が就任する。
2月28日、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。
3月11日、日系2世の平山智が入団[89]。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった[出典 44]。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定[出典 45]。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する[出典 46]。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場(初代。以下「初代・市民球場」)の設計図を公表している。
その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。

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