1970年 新日鉄に
2012年 新日鉄住金に
2019年 日本製鉄に

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八幡製鉄(やはたせいてつ)

第 二次世界大戦直後、占領政策に基づく過度経済力集中排除法の適用を受けた日本製鉄が4社(八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨(はりま)耐火煉瓦(れん が))に分割された結果、1950年(昭和25)4月、八幡製鉄所1か所をもって設立された。同年10月、第一次設備合理化計画を発表、圧延部門を中心に 近代化を進め、アメリカのアームコ社から技術を導入してストリップ工場を整備するとともに、第二製鉄所として1955年、山口県光(ひかり)市に線材、特 殊鋼の光製鉄所を新設した。ついで1956年、第二次設備合理化計画を決定し、福岡県戸畑(とばた)(現北九州市)に新しい銑鋼一貫製鉄所を建設、同年、 化学部門を分離して八幡化学工業(現新日鉄化学)を設立。また、スイスのアルピネ社の特許を日本鋼管を通じて導入して1957年に八幡(現北九州市)に日 本初の純酸素上吹転炉を稼働させた。さらに日本経済の高度成長のもとで増大する鉄鋼需要にこたえるため1959年12月、第三次設備合理化計画を決定し、 1961年に大阪の堺(さかい)製鉄所、1965年に千葉の君津製鉄所と、大型の臨海型銑鋼一貫製鉄所を建設した。

この間、一貫して日本 における粗鋼シェアの1位を維持した同社は、1958年の「公開販売制度」の発足やその後再三実施された設備投資の自主調整においても指導的役割を果たす とともに、オーストラリアをはじめとする鉄鉱石の確保、アメリカを中心とした鉄鋼輸出、ブラジルのウジミナス製鉄所などへの海外技術協力においても重要な 役割を果たした。しかし昭和40年代に入り国際競争力の強化を迫られた同社は、1970年、富士製鉄と合併、新日本製鉄に生まれ変わった。合併直前の八幡 製鉄は、資本金1273億6000万円、4製鉄所、粗鋼生産年1626万トン(シェア18.7%)であった。

[執筆者:中村清司]

1968年のニュース

八幡製鉄・富士製鉄、合併へ動く

八 幡製鉄(資本金1273億6000万円)の稲山嘉寛社長は、17日午前9時45分から東京・八重洲口の本社で記者会見を行い、八幡製鉄と富士製鉄(永野重 雄社長、資本金1020億円)の合併について「両社が合併すれば、国際競争力強化、設備投資の合理化など多くの点で利益が期待できるので、できるだけ早い 時期に合併できるよう努力する。世論がこれを受け入れてくれるかどうかを見きわめた上で、年内にも関係方面に申請したい」と述べた。富士製鉄側も基本的に は賛成している。

戦後最大の合併が急速に具体化に動き出したわけで、これにより鉄鋼業界だけでなく、わが国の産業界の再編成機運を大きく 盛り上げることいなった。また両社が合併すれば、その粗鋼生産量は合計2200万トンを超え、米国のUS・スチールに次ぐ世界第2位の鉄鋼会社が生まれる ことになり、国際的にも大きな話題を呼ぶことになろう。

ただ、両社が一つになるとわが国の鉄鋼業界での市場占有率は粗鋼生産で約35%にも達することから、「独占価格」が形成されると心配する需要家もあり、公正取引委員会がこれをどう判断するか注目されている。
(1968年04月17日)

  ※68年4月17日の朝日新聞夕刊の記事をもとにしました。八幡製鉄と富士製鉄はその後、1970年に合併を果たし、新日本製鉄が誕生しました。